2022年9月15日 星期四

[201810日本北海道東北賞楓12日之第8天] 24. 蔦沼朝燒及蔦七沼散策

 

1023 (星期二)


今天早上走此行重點:蔦沼朝燒(風景篇)

因為必須在日出(6點左右)前到達車程25分鐘遠的 千年の秘湯 蔦温泉  我們租了小巴士清晨5點來城倉飯店接人,今日行程:


4:50 城倉飯店集合(攝氏七度的氣溫,保暖衣物及熱水瓶不可少)
5:00 出發
5:25 蔦溫泉停車場
7:30 原車回城倉飯店吃早餐
9:20 退房,拉行李集合
9:30 出發前往中野神社

這篇蔦沼朝燒以人物為主~
6點的氣溫七度C,清朗讓人醒,大家都有備而來,OK的~


最精采的光影變化是在日出後20-30分鐘,6:30以後專業的大砲漸漸撤離,我們終於能夠拍到無路人甲乙丙的蔦沼朝燒照了!YEAH!

來來來,幸福、幸運的八對佳偶








這一張全員到齊的16人團體照,很有事,讓我們差一點名揚四海,哈

是由這一位超級熱心又活潑外向的日本籍大姊,自告奮勇幫我們掌鏡~
神來之筆,是主動幫我們借了現場專業攝影大哥的樓梯
君不知,她有點年紀了,這樣登高,巍巍顫顫的,嚇壞了眾爸爸們......

於是,就有了這一張,哈哈

再加上熱情活潑的她,怎麼可能安安靜靜地幫我們拍照,於是,耶、唷、讚、cheers 、
smail.......各種助興展笑顏的嬉笑聲不絕於耳,逗得大家笑開懷~



然後.....就悲劇了,太喧嘩了,引得現場另一位大嬸出聲制止我們,我們全部16人加上攝影師,識時務的馬上噤聲,攝影大姊還吐了吐舌頭,超可愛的!哈!

但事情沒那麼簡單落幕,稍晚固定在FB上追蹤的東北旅遊情報社團,就被爆料了,啊..........
真拍謝~



還好沒有鞭得太大力!
雖然這個狀況不是我們造成的,但觀感確實不好呀,我們也只能概括承受,引以為戒,大家互相提醒,不要再重蹈覆轍了~

6:50 遊客所剩不多了



蔦野鳥森林

轉戰蔦七沼 (下圖比較清晰)

蔦七沼位於千年の秘湯-蔦温泉旅館附近,分別是蔦沼、鏡沼、月沼、長沼、菅沼、瓢簞沼以及稍遠一點的赤沼等七個湖沼的總稱,其中面積最大且最有名的,就是現在地:蔦沼



蔦沼→ 19分鐘
鏡沼→ 5分鐘月沼→ 13分鐘長沼→ 21分鐘菅沼→ 14分鐘瓢簞沼蔦溫泉

六沼規劃成的野鳥森林圓型路徑,70幾分鐘可以走完,赤沼在蔦沼的北方,位置獨立偏遠,人煙罕至~

我們七點左右拍完朝燒,就在附近走走,因為約了7:30的小巴要在我們回去城倉飯店用早餐~

只有CC一人自告奮勇、代表大家快步走完全程~





















其他15人在蔦溫泉及旁邊的瓢簞沼拍照,這裡紅葉不錯拍~



與蔦溫泉淵源深厚的大町桂月  186936日(明治2124日)- 1925年(大正14年)610日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。

大町桂月文學碑

碑文:
蔦温泉の名は未だ世に現はれざるが、余の気に入りたる温泉也。なほ精(くわ)しく云へば、赤倉岳(南)の中腹に在り。一軒屋にて、本館には普通の旅客を迎へ、別館には自炊湯治客を迎ふ。温泉の質は塩類温泉にして、浴場三つ、その一つは四間四方にて、本館に接す。三方開けて、浴しながら月を見るを得べし。その一つは一間に五間、三つに仕切りて温泉を異にす。その一つは、一間に二間、三条の湯滝を懸く。湯舟の気持ちよきこと天下に稀れ也。

   大町桂月・著(蔦温泉「二.小杉未醒画泊の薬師如来」)


上圖左邊的碑文,是蔦溫泉為大町桂月逝世五十週年紀念立的文學碑,全文:

大町桂月と蔦温泉

大町桂月は明治・大正期を代表する文人の一人で、美文の創始者ともいわれている。本名を芳衛いい、明治2年(1869年)、高知市の旧武士の家に生まれた。幼い頃から漢学などの学問に親しみ、軍人や政治家などを志したが、文学の道に転じ、東京帝国大学国文学科在学中から学生文士として詩文を次々に発表した。
明治31年(1898年)、出世作である美文・韻文集「黄菊白菊」を刊行し、その文名を不動のものとした。その後おびただしい数の作品を著して好評を博し、当時の青年で桂月の文学に親しまざるはなしとまでいわれた。その著作は多彩なジャンルにおよび、著書はじつに二百冊を超える

晩年はとくに自然美の探訪、発見につとめ、文筆のかたわら、全国を訪ねて紀行文を発表した。明治41年(1908年)8月、はじめて十和田湖を訪れるやその美しさに魅了され、翌年その紀行文を雑誌「太陽」に掲載したのをきっかけとして十和田湖は一躍有名になった。 その後も来訪を重ね、蔦温泉を拠点に県内各地を探勝するうち地元との絆を深め、大正14年(1925年)3月には蔦温泉に本籍まで移した
   
そして同年6月10日、桂月は急な病に倒れ、この蔦温泉で56歳の生涯を閉じた。いまはの際まで酒に舌鼓を打ち、辞世を詠み、遺言を述べ、家族や友人をやさしく気遣いながらの最期であったという。蔦温泉には本碑のほかに、墓所また胸像と歌碑とがあり、十和田湖と八甲田の自然とを、いつまでも見守っている。「清文院桂月鉄脚居士」、生前自らがつけた戒名である

大町桂月是明治、大正時期的代表性文人之一,也是美文的創始人。本名芳衛,明治2年(1869年)出生於高知市舊武士之家。他從小就熟悉漢學等學問,立志成爲軍人和政治家,後來轉向文學之路,在東京帝國大學國文學系就讀期間,作爲學生文士陸續發表了詩文。

明治31年(1898年)發行了出人頭地的美文·韻文集《黃菊白菊》,使其名不虛傳。此後,他撰寫了無數部作品,受到了好評,而且作爲當時的青年,不得不熟悉桂月的文學。其著作種類繁多,著作實際上超過二百冊。

晚年特別緻力於自然美的探訪和發現,帶着文筆到全國各地發表了紀行文。明治41年(1908年)8月,首次來到十和田湖,被它的美麗所吸引,第二年,十和田湖將紀行文刊登在雜誌《太陽》上,以此爲契機,十和田湖一舉成名。此後,他多次來訪,以蔦溫泉爲據點,在縣內各地探勝,加深了與當地的連結,並於大正14年(1925年)3月搬到蔦溫泉。

同年610日,桂月因突發疾病病倒,在蔦溫泉結束了56歲的生命。據說,直到現在,他還在喝酒、吟誦辭世、發表遺言、親切關懷家人和朋友。蔦溫泉除了本碑外,還有墓穴和半身像和歌碑,可以永遠眺望十和田湖和八甲田的自然風光。





我們在蔦溫泉停車場及瓢簞沼附近邊拍照邊等預定7:30的接駁車回去城倉飯店,還邊等衝六沼巡禮的CC,預定需要70幾分鐘的森林巡禮,硬是讓他40幾分鐘就出現了,雖然還是讓大家等了10分鐘,真是不好意思~

今天早上,夢寐以求的絕景:蔦沼朝燒get,不枉費我們4:30起床、燒了來回共¥36,000銀兩的包車費,解鎖成功~yeah~


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